当山は江戸時代初期に、美濃国大垣城城主であった松平定綱が開基となり、維山丹公禅師を向かえて開山とされた、臨済宗妙心寺派の寺院です。現在は第21代住職の横関政徳が護持をいたしております。
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徳秀寺 永代供養みんなのお墓
(opens in a new tab)みんなのお墓 維持費込みの永代供養合同墓と個別回忌供養墓
その元を宗教では、しばしば「感謝しなさい」と言われる。もちろん、感謝することが悪いわけではない。私自身、ありがたいと思うことも、おかげさまだと思うこともある。ただ、私はその言葉を聞くたびに、もう少し手前を見たくなる。感謝する以前に、そもそも私は、どうやってここに存在しているのだろう。考えてみれば、自分は何もかもを自分で用意して生きているわけではない。命を受け取った。言葉を受け取った。知恵を受け取った。誰かが時間を使ってくれた。場所を空けてくれた。話を聞いてくれた。会話ひとつをとっても、相手が自分の話す時間を少しこちらに譲ってくれることで成り立っている。私は、こうしたさまざまな受け渡しを、広い意味で「譲られている」と考えている。そう考えると、「譲る」ということは、善行として後から身につけるものだけではない。人が存在することそのものの中に、初めから組み込まれている働きなのではないかと思う。私たちは、譲られて生きている。そして同時に、自分もまた何かを誰かに譲りながら生きている。物は、いずれ手放す。財産も、身体も、最後まで自分のものとして持ち続けることはできない。けれど、誰かから受け取った優しさや言葉や時間を、自分が別の誰かへ渡したなら、それは自分のところだけで終わるとは限らない。受け取り、自分を通り、また誰かへ渡っていく。その流れは、個人としての私よりも大きい。私はそれを、便宜上「我」と呼びたくなる。ここで言う「我」は、どこかに永久不変の実体があるという意味ではない。有るものと無いもの、私と他者、独立と共存を、完全に別々のものとして切り分けることはできない。私たちは分けて考えることで物事を理解するが、突き詰めていけば、その境界は思っていたほど明確ではない。だから、私という個体が終わっても、私を通ったものまで同時に消えてしまうとは限らない。その意味で私は、この受け渡され続ける働きの中に、個人を超えて続くものを見る。善悪についても、私は同じように考える。平和な時には犯罪とされる殺人が、戦争では功績として扱われることがある。そう考えると、人間の作る倫理や善悪の境界には、その時代、その社会、その集団を守るための都合が入り込む。だから私は、外側から与えられた「善いことをしなさい」という基準だけに頼るより、そのもっと手前にあるものを見たい。自分が何を譲り受けてきたのか。その中にあった優しさを、自分はどう使うのか。どう次へ渡すのか。それが、今の私の課題なのだと思う。お釈迦様が何かを新しく始めたというより、お釈迦様もまた、もともとそこにあったものに気づいたのかもしれない。その始まりがどこなのかは分からない。神なのか。仏なのか。あるいは、そんな名前すら必要ないのかもしれない。ただ、人が誰かから受け取り、また誰かへ渡しながら存在してきたことは、ずっと続いている。もし、その中にある優しい心を「仏心」と呼ぶなら、仏心は自分の中に所有する特別な何かではない。譲られて受け取り、自分を通して、また譲っていく。私は今、その働きの中に、自分の「元」を見ようとしている。
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